もっと評価されるべきだと思う名将魏延三国志
なんか裏切り者の印象がありますが、もっと評価されて良いと思います 最終更新日:2018年01月03日
https://ja.wikipedia.org/wiki/魏延
魏 延(ぎ えん、? - 234年)は、中国 後漢末期から三国時代にかけての蜀漢の武将。字は文長。荊州 義陽郡の人。劉備の荊州時代以来の配下。
劉備の生前[1][編集]
211年、劉備入蜀の際、彼が率いる軍の配下として随行し、何回か戦功を立て、牙門将軍に昇進した。
219年、漢中王に即位した劉備は成都に帰還する際、漢中の地を要害とした。人々は重鎮の張飛が起用されるであろうと思い、張飛もそう思っていた。しかし、予想に反して劉備は魏延を督漢中・鎮遠将軍・漢中太守に抜擢した[2]。劉備が群臣との会合の場で、魏延に重任を拝命する際の抱負を問うたところ、魏延は劉備に対し「曹操が天下の兵を挙げて攻め寄せて来たならば、大王のためにこれを防ぎ、曹操配下の将軍が10万の兵でやって来るならば、これを併吞する所存でございます」と語った。劉備や群臣はその勇敢な発言に感心した。
221年、劉備が即位すると同時に、鎮北将軍に昇進した。
諸葛亮の北伐時[1][編集]
223年、劉備が死去し、諸葛亮が丞相として蜀の全権を握った後も、引き続き重用された。
227年、諸葛亮が第1次北伐のため漢中に入ると、魏延は督前部(前線部隊の指揮官)となり、更に丞相司馬(軍事に関する幕僚職)・涼州刺史に任命された。北伐に際して、諸将は皆が魏延と呉懿を先鋒にするのが妥当であると言ったが、諸葛亮はこれを聞き入れず馬謖を抜擢し、蜀軍は敗北した[3]。
230年、呉懿とともに羌中へ遠征し、陽谿で魏の費耀・郭淮を打ち破った功績で、前軍師・征西大将軍に昇進し、仮節の待遇を与えられ、南鄭侯に爵位を上げられた。
231年、蜀漢軍が魏の祁山を包囲したので、祁山の包囲を解くために司馬懿が諸葛亮を、張郃が王平を攻めて来たが、魏延・呉班・高翔は司馬懿を大いに撃退した[4]。
魏延は出征する度に、諸葛亮に対して、自らが兵1万を率い、かつての韓信のように、諸葛亮の本隊と別の道を通り、潼関で落ち合う作戦を許可してほしいと要請していた。しかし諸葛亮がこれを許さなかったので、魏延は諸葛亮が臆病な故に自分の才能が発揮できないと嘆いていた。
また魏延は勇猛で誇り高い性格ゆえ他の諸将は彼を敬遠していた。しかし、諸葛亮の丞相長史(丞相府の属官)として軍の運営を統括していた楊儀だけは公然と手向かった。そのため楊儀との仲は特に悪かった。同じ席で言い争いになると、魏延は楊儀に剣を突きつけ脅し、楊儀を泣かすというありさまで、そのたびに司馬の費禕が両者の仲裁に入っていた[5]。諸葛亮は魏延の勇猛・楊儀の才幹、いずれも高く評価していたため、どちらも罷免するに忍びず、二人が不仲なことに心を痛めていた[6]。