全身肝っ玉といえば趙雲子龍三国志

バランスとれた名将 最終更新日:2017年12月25日

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出典:YouTube
三国志を抱く 趙雲子龍 赵云子龙 ①
文醜さんを手玉にとる青少年、子龍さん。 (金城さん!?もしくはどこかの韓流スターなお顔立ちですねw) ワタクシ、子龍さんの活躍を見ることなくこのゲームから離れました(笑

公孫瓚の部下であったが、青州で袁紹と戦っていた田楷の援軍として公孫瓚が劉備を派遣した際、趙雲も随行して劉備の主騎となった。

建安13年(208年)、荊州の当陽県長坂で曹操率いる5000の兵に追いつかれた劉備は、妻子を捨てて逃走した。この時、趙雲が劉禅を身に抱え、更に甘夫人を保護したので、二人は危機を免れることができたが、劉備の娘二人は曹純に捕獲された(長坂の戦い)。この戦いの後、牙門将軍に昇進した。

劉備の入蜀時には荊州に留まった。建安18年(213年)、諸葛亮・張飛・劉封らと共に長江を遡って入蜀し、益州の各郡県を平定した。趙雲は江州(重慶)から別の川に沿って西進し、途上で江陽を攻略した。益州が平定された後、翊軍将軍に任ぜられた。

建興元年(223年)、劉禅が即位すると中護軍・征南将軍へ昇進し、永昌亭侯に封じられた。後、鎮東将軍に昇進した。

建興5年(227年)、諸葛亮と共に北伐に備えて漢中に駐留した。翌6年(228年)、諸葛亮が斜谷街道を通ると宣伝すると、魏の曹叡は曹真を郿に派遣し、諸軍を率いて駐屯させた。趙雲は鄧芝と共にその相手をする囮となり、諸葛亮は祁山を攻めた。曹真は箕谷に大軍を派遣したが、兵の数は趙雲と鄧芝の方が多かったという(『漢晋春秋』)。しかし曹真の兵は強く、趙雲と鄧芝の兵は弱かったので、箕谷で敗北した。趙雲が軍兵を取りまとめてよく守ったため、大敗には至らなかったが、敗北の責任として鎮軍将軍に降格された。諸葛亮は、趙雲には不戒の失敗があったと上奏している(「諸葛亮伝」)。

翌7年(229年)、没した。趙統が後を継いだ。

景耀4年(261年)、趙雲は順平侯の諡を追贈された。法正・諸葛亮・蒋琬・費禕・陳祗・夏侯覇は死後すぐに、関羽・張飛・馬超・龐統・黄忠は景耀3年に追贈されており、趙雲は12人目である。時の論はこれを栄誉とした。


正定県趙雲故里にある趙雲像
『季漢輔臣賛』では「重厚な性質」とされ、陳到と共に「選り抜きの兵士を率い、勇猛でたびたび勲功をたてた」とされている。

趙雲別伝[編集]


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