相模の国・三浦、湘南の観て歩き(34); 小田原 「小田原城」

相模の国(神奈川県)の沿岸地方は、古来より東西の政治や文化、歴史が往来した地方としても顕著である。 これらの地域は現在、愛称で「湘南地方」とも称しているが、厳密な定義はないようである・・?。巡る先は主に、三浦、江ノ島、藤沢、茅ヶ崎、平塚、大磯、二宮、小田原の湘南各地です。 最終更新日:2013年11月03日

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相模の国・三浦、湘南の観て歩き(34); 小田原 「小田原城」

相模の国・神奈川県

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小田原市は酒匂川の流れる肥沃な足柄平野を擁し、西部は箱根の連山に連なる日本でも有数の観光の拠点である。

南は相模湾に面した漁業の地であり、丘陵地帯は曽我梅林でも知られる曽我地区の梅の大産地でもある。
又、小田原は「小田原城」に象徴する歴史の町であり、一時代は関東地方を支配した要衝でもあった。

頼朝蜂起の報に接した大庭景親は武蔵・相模の平家方の武士に出陣を呼びかけ、両軍は石橋山の谷を隔てて対陣した。
平家方は三千余騎、頼朝方はわずか三百騎、数の上でも圧倒的に勝る平家方に惨敗した頼朝は地元地域に詳しい土肥実平の案内で大洞(しとどのいわや)に一時、身を潜めた。
敵将・梶原景時に発見されたが、彼の温情的配慮により一命を得た頼朝は、その後真鶴岬より安房に脱出した。 
開戦時、三浦の庄を支配する三浦一党が馳せ参じるが、酒匂川の増水で参戦出きず、頼朝敗戦に繋がったといわれる。 

その後頼朝は千葉・安房で陣を立て直し、再び反平家の旗を挙げる、そして鎌倉開府へと導く。
土肥次郎実平の嫡男遠平が、この時父に劣らぬ功績を上げ、戦後、早川荘の総領所になって小早川村(小田原市)に築城したのであった。

尚、土肥氏の詳細は、「日本周遊紀行:湯河原」の項で記載しています。
http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/nn-1-2.htm

室町時代には、この地方に「大森氏」が登場する・・、

大森氏は鎌倉後期の戦乱時、箱根関所などを実質的に采配し、更に地域経済を掌握する支配者としての立場を鮮明にしながら小田原に根拠を持つ。 
小田原城の築城を開始し、当初の小田原城の輪郭が出来上がったといわれる。

1495年、伊豆を支配していた北条早雲(後北条の始祖)の奇襲によって大森氏から小田原城を奪う。以来、北条氏政、北条氏直父子の時代まで戦国大名・後北条氏(鎌倉期の北条家とは異なり関連性はなさそう、紛らわしいので、あえて戦国期の小田原・北条を後北条と称している)の五代・九十五年にわたる居城として南関東の政治的中心地となった。

城内へ

この時代つまり戦国期、小田原城の攻防は二度起きている・・、

永禄4年(1561)に上杉謙信の攻撃を、更に同12年(1569)には武田信玄の攻撃を受けるが、いずれもこれを防いでいる。 小田原城が難攻不落の名城の名をほしいままにした事件であった。
この内、小生の住む厚木市郊外から愛甲郡愛川町にかけて戦乱が生じた武田信玄との攻防について述べてみる。
当時、関東の小田原周辺では武田、北条、今川の各氏が覇権を争っていた。 
そして「武田信玄」は小田原本城を攻略すべく作戦をたてていた。

次回に、「小田原城の攻防」を記載します。


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